2018.11.30 |暮らし    1

介護という旅の途中に【第3回 父の体調悪化】~連載エッセイ

  高齢の父母の老老介護を支える日々が始まった、写真家でハーバリストの飯田裕子さんに初めて直面する「親の介護」に日々へのとまどい、気づきをリアルタイムで綴っていだだく。

 写真家として世界各地を巡ってきた経験、娘としての思いを介護に重ねる。

 父が医師をリタイアした後しばらくして、いよいよ海の近く、勝浦に拠点を本格的に移した両親だったが、その頃、父の体調は日に日に悪くなってきているように見えた…。

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撮影でたびたび訪れるハワイ

 * * *

 父が船橋で開業していた医院を閉めてリタイアしたものの、さあこれからどうしたいのか…という時期、父には決まったビジョンが無いように思えた。

「2年はカルテの保管をしなくてはならない」とカルテ用の小屋を庭に作り、船橋を去る決断はあやふやのままだったのだ。

 母はそんな父に不安と苛立ちを募らせていた。多くの主婦の例にもれず、食事の支度にはリタイアがないという事も母にとって先の希望が見えないことの一つだったのだろう。

 当時は、私がロケ取材の前後に船橋に行くと、2人はまだまだ頼れる存在であった。

 しかし、80歳を超えて父はぐんぐんと痩せていった。そして、夜中に、寝言なのか、呻き声や時に叫びが父の部屋から聞こえることがあった。

 短期間で劇的なほど痩せたという事で「もしかしたらどこかに癌があるかもな」と父は自己診断し、母に耳打ちしたらしい。

 しかし、病院での癌検診を受ける様子もなく、月日は過ぎていった。

 父のその姿はまるで植物が葉を落として枯れてゆくようだった。

父とナナ

リタイア後、痩せてきた頃の父と愛犬のナナ

「痩せちゃったね…」と、ある日私は不意に口に出してしまった。すると「大きな体を維持するよりコンパクトな体の方がいいんだ。体が老いに適応して変化しているんだから」と父。

 風貌は、老人というより負けず嫌いの軍国少年のように見えた。

「パパの部屋を覗いたらガイコツがいるみたいで怖い~」と母。「なんであんなになっちゃったの~?若い頃はハンサムだったのに…」

 まるで綾小路きみまろのネタさながらだが、母には、痩せた父の姿は慣れていないようだった。私は父のその姿は、例えは悪いがまるで「即身仏」のように見えた。老いに順応するための変身。命の不思議さを感じた。

 そして父は若い頃には全く口にしなかった甘いカステラが大好物になった。 「カロリーを体が必要としているんだ」と。

 その頃、スーパーのレジ付近には、やたらカステラやフワフワのスポンジケーキが山積みになっているように私には感じられた。船橋の住宅地は同時代に東京の企業に勤めていた核家族がほとんどなので、自ずと今は高齢化住宅地となっていた。

 年齢を重ねれば誰でも歯や胃腸の機能が低下する。カステラにはタンパク質の卵やミルクがふんだんに使われ、しっとり感もあり、食べやすいカロリー源として、人気だったのかもしれない。

 また、父はこの後に及んでもアンチエイジングの効果を期待してポリフェノール摂取と称し、コーヒーを砂糖とミルクをふんだんに入れて飲むようになった。

 飴も口中の渇きを潤すのに欠かせなかった。日々糖質のオンパレードだ。

「若い人のするダイエットの逆だよ。老人はこれでいいんだ」と父。 それ以来、今でも勝浦で同じように糖質を必要としているらしく、常にガムシロップを作り置きしウイスキーにもそれを入れて欲しいと言う。
 
 父は、リウマチの症状もひどくなり、身体的な辛さを抱えながら車で勝浦との行き来をまだ続けていた。家族からすると、運転も止めてもらいたいぐらいだったが、どんなアドヴァイスも跳ね除けた。

「女子供に指示されてたまるか!」

 昭和ヒトケタ世代特有のリアクションなのだろうか。私や母が「勝浦へ越したほうが呼吸も気持ちいいのに」、「病院に行った方がいいのでは?」と、言えば言うほど意固地になってしまうので、もう何も言うことをやめた。

 するとある日、父は「もういいかな、勝浦に決めるか。」と決断。不動産屋さんとの交渉をし、一軒の家をたたむそれらの事務手続きは私が引き受けることとなった。というより、もう父母には煩雑な事務手続きは無理だった。

父母の引っ越しと私の体調不良

 私にとっても、通常の仕事とは全く違う慣れない書類手続きは、荷が重かった。

「これも仕事の一つだから、感情を入れず事務的に進めれば良い」と、頭では割り切っていたつもりだったが、ある日、左胸下に火傷のような激痛が走り、帯状疱疹になってしまった。身体には嘘はつけなかったようだ。

 私はその時初めて、老々介護を支えることの大変さというものに思いを馳せた。

 介護が必要な人と介護する人、その両方向が健全でいられるため、知恵や努力の必要性を感じたのだった。

 しばらく安静が必要で船橋にいることになったお陰で、私は荷物の整理をする時間も取れ、家族で長く過ごした船橋にいることになった。でもまだピリリと神経が痛む。

 そんな時、セント・ジョーンズ・ワートというハーブのサプリメントを友人のハーバリストに勧められた。セント・ジョーンズ・ワートは鬱の症状に効果が期待できると言われると知ってはいた。が、神経系統の疲労にもとても良いのだという。すると思いのほかよく眠れ、気持ちもいくばくか大らかになった。それ以来、今も気分的な疲労を感じるときには、夜だけ2錠摂取したりしている。 

ハワイで気付いた自分の「老人力」

 先日、久しぶりの海外ロケでハワイに行った。3泊の短いものだったにせよ、やや重い気分をハワイの風が吹き飛ばしてくれた。

ワイキキの街中で観たフラダンスに心が和む

 ハワイは私にとって何度も訪れた馴染みのある場所だが、今まではどちかかと言うとマニアックな場所へ行った。しかし、今回はまさに観光スポットのど真ん中、ワイキキ。その通俗的で安心していられるハワイが、私の緊張感を緩めてくれたのだった。「若い頃は時差が体にこたえたのに、最近はすぐに仕事に入れる」と同年代の旅行作家さんでとうなずきあった。彼女も昨年お父様を看取った人だ。

 それはきっと「老人力」。年齢と共に、時差への感覚もだんだん鈍くなっているのだろう。それもあながち悪くない。

 ハワイは今も継続的に噴火活動があり、いわば新たな命を産み続けている土地だ。ポリネシアではその生命力を「マナ」と呼ぶ。
ハワイの一番のお土産は、「マナ」を得たことだったように思う。

 帰国しすぐに両親の元へ直行すると、父はベッドの上で食事を摂っていた。

 つい先日まではベッドから起きて食卓につき、缶ビールを開けていたのに、今は、それすら息苦しいようだった。 酸素供給数値は2になり、やや上がった。

 母は日々、訪問ヘルパーさんや看護師さんなど、介護を支えてくれる方たちの存在に感謝をしつつも「人が家に来すぎて疲れます」とケアマネジャーさんに漏らしていた。

 要支援2から一足飛びに要介護2に認定された父をとりまく1週間のスケジュールは過密だ。

 火曜日の午前にヘルパーさんが来て掃除やベッドのシーツ変えに1時間。昼には食料を運んでくれる生協の配達が来る(父母の家は、街まで遠く、なかなか買い物に行けないので、個人的に依頼をしている)。木曜日には訪問看護師さん。 2週間に一度は医師の訪問診療…。母は多分人生で初めて、スケジュールカレンダーを作られて目が回っているようだ。

母の近影

勝浦の「千葉県立海の博物館」での母

 勝浦への引越しを決めた時には、まだまだ父にこんな助けが要ることになろうとは、想像もできなかった。

 私自身も要支援や要介護などという言葉を耳にしながらも、それは、どの程度の人がどのような認可を受けるのか…など、介護に関する知識はゼロに等しかった。

(つづく)

photo by (c)Naomi Shoji

写真・文/飯田裕子(いいだ・ゆうこ)

写真家・ハーバリスト。1960年東京生まれ、船橋育ち。現在は南房総を拠点に複数の地で暮らす。雑誌の取材などで、全国、世界各地を撮影して巡る。写真展「楽園創生」(京都ロンドクレアント)、「Bula Fiji」(フジフイルムフォトサロン)などを開催。近年は撮影と並行し、ハーバリストとしても活動中。Gardenstudio.jp(https://www.facebook.com/gardenstudiojp/?pnref=lhc)代表。老老介護生活を送る両親のバックアップも始まった。

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  1. photographerくのいち より:

    “生と死”について。。。
    先生の介護フォトエッセイと今まさに読んでいたアマゾン先住民のドキュメンタリー文庫本『ヤノマミ』のシャーマニズムの精神世界は、同じ地球上の“生と死”の考え方の違い、アマゾンの奥深い森から介護という実情に日本人として引き戻されました。

    ヤノマミ族の“生と死は、いつも隣にある”思想と、我が日本人なら誰しも逃れらるない介護の事情。

    でも、同じ地球上に住まう人間として“死”は、いつか来るもので、とても身近な事。二つの文章を読んで、“死”を恐れず、今生きていることを輝かそうと思いました。

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