2017.10.19 |暮らし   

足利将軍、信長、謙信をつなぐ洛中洛外図屏風

『週刊ニッポンの国宝100』第5号「三十三間堂・洛中洛外図屏風 上杉本」p31「国宝原寸美術館」より

 米沢市上杉博物館に所蔵される国宝「洛中洛外図屏風 上杉本」。なぜ山形県に都を描いた洛中洛外図屏風が?と思うが、これは織田信長が上杉謙信に贈ったものだった。

室町幕府滅亡後、織田信長が上杉謙信に贈る

 高さ160センチ余、幅365センチ余の大画面いっぱいに広がる金雲。その中から顔を出す都の名所、都の人々の営み。国宝「洛中洛外図屏風 上杉本」(六曲一双 米沢市上杉博物館蔵)は幸福感に満ちている。応仁の乱(1467─1477年)で灰燼と化した都がみごとに復活を遂げた、その新しい都のイメージで描かれたのが洛中洛外図だと知れば、納得する。

「洛中洛外図屏風 上杉本」が描かれたのは、足利将軍時代末期。描いたのは狩野永徳。のちに信長に重用され、安土城の障壁画も手掛けたとされる天才絵師である。

 この洛中洛外図屏風はもともと、13代将軍足利義輝が永徳に注文したものだとされている。しかし完成する前に義輝は没する。注文主不在まま永徳は洛中洛外図屏風を完成させるが、その数年後、織田信長が15代将軍足利義昭を追放し、室町幕府は滅亡する。その後、信長はこの屏風を上杉謙信に贈るのである。

『週刊ニッポンの国宝100』(小学館)第5号「三十三間堂・洛中洛外図屏風 上杉本」によれば、この屏風の上京隻、第4扇下に描かれている武家行列中、輿に乗っているのは上杉謙信ではないかとする説が紹介されている。想像力をそそる屏風であることは間違いない。

半世紀前の京都の名所が季節感とともに

 六曲一双の右隻には、主に商業で活況を呈する新興都市としての下京が、左隻には、花の御所や公家・幕府管領の邸宅など、公家や大名が集まる上京が描かれている。祇園会の山鉾巡行も、嵐山の紅葉狩りも、御所の正月節会も描かれ、名所とともに四季の行事がみごとに織り込まれているのである。

 人々の営みも、蹴鞠に興じる公卿、輿に乗る貴人、天秤棒を担ぐ行商人、屋根を葺く職人など、貴人から庶民までが描かれている。

 幅365センチという大きな屏風のため、実際の展示ではなかなか細部までは見ることができないが、『週刊ニッポンの国宝100』第5号では、清水寺、金閣寺、渡月橋、千本閻魔堂を描いた部分が原寸で掲載され、現代の私たちが訪れる京都の名所の、半世紀前の姿を見ることができる。

都の景観を高い山から俯瞰するように

 ところで信長が謙信にこの洛中洛外図屏風を贈ったのは天正2年(1574)。信長は室町幕府最後の将軍となった足利義昭を追放したばかりで、実質的には天下人となっていたが、反発する者も多く、越後をおさえる上杉謙信との同盟を重視しようとしていた。

 当時贈られたものはほかにもあったとされ、いま上杉神社に伝えられている「赤地牡丹唐草文天鵞絨洋套(あかじぼたんからくさもんびろうどようとう)」(重文)もその一つだといわれている。もっともその後、同盟は決裂する。

 洛中洛外図は、都の景観を高い山から俯瞰するように眺められるもの。現代の私たちが見ても、京都をまるごと掌中に収めているように思えるのだから、写真も映像もネットもない、半世紀前の武将にとってはどれほど大きな価値を持つものだったろうか。

文/まなナビ編集室 写真協力/小学館

初出:まなナビ

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