2017.12.05 |暮らし   

シニア特急~初老の歴史家、ウェールズへ征く~<18>【連載 エッセイ】

 長年、イギリス史を研究してきた、歴史家でエッセイストの桜井俊彰氏は、60代半ばにして、自身にとって「行かなければいけない場所」であったウェールズへの旅に出かけます。

 桜井さんのウェールズ旅の軌跡を、歴史の解説とともに綴った、新しいカタチの「歴史エッセイ」で若いときには気づかない発見や感動を…。

 シニア世代だからこそ得られる喜びと教養を堪能してください。

 さあ、『シニア特急』の旅をご一緒しましょう!

【前回までのあらすじ】

 ウェールズの大聖堂「セント・デイヴィッズ」にゆかりの深い『ジェラルド・オブ・ウェールズ』の本を日本人向けに出版した桜井氏は、「セント・デイヴィッズ」に訪れ、その著作を寄贈することを夢見ていた。

 そして、ついに念願が叶い、ウェールズへの旅へ出発する。

 飛行機、列車、バスを乗り継ぎ、無事に目的地である大聖堂「セント・デイヴィッズ」のある街、セント・デイヴィッズに到着した。

 宿はB&Bの「Ty Helyg(ティー・へリグ)」。早速、訪れた大聖堂は土地の谷底にそびえ建っていた。神聖なる聖堂の中へ入り、ついにジェラルド・オブ・ウェールズの石棺に出合う!また、思いがけず、テューダー朝の始祖である国王ヘンリー7世の父、エドモンド・テューダーの石棺にも巡り合う。

 ジェラルドについて記した自著を大聖堂「セント・デイヴィッズ」へ献上したいという思いを果たし、翌朝、再び「セント・デイヴィッズ」を訪れた際、教会の幹部聖職者である参事司祭に出会い、前日渡した著書のお礼を言われるのだった。そして、次の目的地、ペンブロークを目指す。

ペンブローク城

次なる目的地「ペンブローク城」

→第17回までを読む

 * * *

(2017/4/11)

VII これぞカッスル、ペンブローク城【2】

●ノルマン人が建てたペンブローク城

 ここで「ペンブローク城」のことを話しておきたい。

 ウェールズ南西部のペンブロークシャーに建つ「ペンブローク城」は、「カエルナヴォン(カーナヴォン)城」、「コンウィ城」、「カーディフ城」などと並んでウェールズを代表する名城の一つであり、多くの観光客をひきつけている。

 日本でもウェールズ観光関係のガイドブックやパンフレットの類には、必ずといっていいほどこの「ペンブローク城」が紹介されている。

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 ペンブローク周辺の南西ウェールズの地は、古い王国の名にちなみダヴェッドと呼ばれていたが、ここがノルマン人に急襲されたのは1093年のことだ。

 ウェールズとイングランドとの境に領地を持つノルマン・マーチャー、シュルーズベリー伯ロジャー・オブ・モンゴメリーとその息子アーノルフは、ウィリアム征服王が没すると、それまで王に抑えられていたウェールズへの領土欲をむき出しにする。

 このマーチャー親子に率いられたノルマン人の一軍はシュルーズベリーからウェールズ領内に侵入すると一気に西進し、カーディガン(ケレディギオン)湾に至る。そこから古いウェールズの王国があったケレディギオンを抜き、ペンブロークに達し周辺地域を制圧する。

 こうしてノルマン人によって建てられたのがペンブローク城であり、ここは南西ウェールズにおいて、フランス語を話すノルマン人支配の象徴となった。

 そして、セント・デイヴィッズまでを含むこのペンブローク周辺地域は、この後、態勢を立て直し領土奪還の大反抗を開始したウェールズ人にも、決して奪い返されることはなかったのである。

●ジェラルドの自慢の祖父

「ペンブローク城」はジェラルド・オブ・ウェールズとも所縁が深い。

 ジェラルドの母方の祖父ジェラルド・オブ・ウィンザーがこの城の城主だったからである。

 ジェラルド・オブ・ウィンザーはイングランド国王ヘンリー1世の信任厚い家臣であり、ヘンリー1世からペンブローク領主アーノルフ・オブ・モンゴメリーの副官に任じられていた。

 このアーノルフ、父親のロジャーと比べるとはるかに力量に欠けた男で、自身の失政やウェールズ人の大反抗にすっかり嫌気がさし、本領地のイングランドに戻って、いや逃げ帰ってしまう。

 そんなことでガラ空きになったペンブローク周辺地域は、棚ぼた状態でイングランド国王直轄の王領地に編入されるのだが、このときジェラルド・オブ・ウィンザーは国王ヘンリー1世からペンブロークの城主に任じられるのである。

 ジェラルド・オブ・ウィンザーは優れた武人であり、大変な戦術家だったらしく、孫のジェラルド・オブ・ウェールズはその著書『ウェールズ紀行』(The Journey through Wales)の中で、この祖父に関する興味深いエピソードを披露している。

 それは1096年のウェールズ人大反抗によって、ペンブローク城がウェールズ兵の大軍に包囲されていた時のことで、次のように記している。

――包囲は長期間にわたって続き、城に立てこもる兵士は忍耐の限界に達しようとしていた。城内の食料がほとんど底を尽いたとき、ジェラルドは、まだ食料がたっぷりあるかのような印象を敵に持たせるために一計を案じた…

…彼は4匹の豚を引いてくると(実際はそれが城内の食料の全てなのだが)、それらを解体し、分けた肉の塊を城壁から敵に投げつけた…

…彼はまた、さらに巧妙な策を思いついた。彼は部下に自分の署名入りの手紙を持たせて城を脱出させ、それをウィルフレッドのとある宿の外にわざと落とさせた…

…この手紙が、味方へ急ぐジェラルドの兵から偶然落ちたように思わせるためである。手紙には援軍はいらない、城内の食料は豊富で兵の士気もすこぶる盛んであると書かれていた…これを読んだウェールズ側は即座に城の包囲を解き、撤収した――

 ジェラルド・オブ・ウェールズがこう自慢するこの祖父は、あの「ウェールズのヘレン」と呼ばれたネストを妻に持ち、ノルマンの名門「フィッツジェラルド家」の始祖となった人物でもあった。

●ヘンリー・テューダーが生まれた城

 しかし、それにも増して「ペンブローク城」を有名にしているのは、英国史を大きく変えた男が1457年、ここで生まれ、そしてここで育ったことである。

 その男の名をヘンリー・テューダーという。彼こそ、イギリスを世界に覇を唱える大海洋国家へと導いたあのエリザベス1世女王の祖父で、テューダー朝の開祖イングランド国王ヘンリー7世なのである。

 このヘンリー・テューダーには4分の1ウェールズ人の血が流れていた。それは彼の祖父がオワイン・テューダーというウェールズ人だったからである。

 祖父オワイン・テューダーは、もともとはウェールズの王族に繋がる名門の出自だったが、オワインの時は没落していて、ようやく彼はイングランド王宮内に職を見つけ食いつないでいた。

 だが、世の中は何があるかわからない。英国史を大変革する奇跡の序章が、ここに始まる。

 何とこの一介のウェールズ人は、国王ヘンリー5世の寡婦でフランス国王の娘キャサリン・オブ・ヴァロアと結ばれ、男子を二人設けてしまうのである。

 ヘンリー5世といえば、英仏百年戦争のアジンコートの戦いにおいて、強力な弓兵(ロングボウ)部隊を率い寡兵ながら名高いフランス騎士軍を壊滅させた有名な武断派国王である。

 彼はその結果、フランス王位継承権とフランス王の娘キャサリンを妻として獲得するわけだが、間もなく伝染病に感染し実にあっけなく死んでしまう。

 キャサリンは、だから勝者ヘンリー5世とは無理やり結婚させられた感が強いが、寡婦となり一人で過ごしていたロンドンのイングランド王宮内で彼女の納戸係、つまり衣装アドバイザーをしていたオワインとは、真剣な恋に落ちたのである。オワインが彼女の好きなタイプだったのは間違いない。

 もちろん、あれよあれよという間に、フランス国王の娘という気高い身分の皇太后が、ウェールズ人の血を持つ二人の男子を産んでしまったことに、イングランド王宮側は相当慌てた。

 が、産まれてしまったものはしょうがない。何となれば二人の男子、歳の順にエドモンド・テューダーとジャスパー・テューダーは、キャサリンが亡夫ヘンリー5世との間に産んだ時のイングランド国王ヘンリー6世の父親違いの兄弟であり、しかも二人が成長するに連れ、優しい兄のヘンリー6世はこの「できる弟たち」をますます好きになっていったのである。

 ちなみにこのエドモンド・テューダーが、既述のように豪華な棺に入って「セント・デイヴィッズ」で眠っていたのであり、私はびっくりしたというわけだ。

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桜井俊彰

桜井俊彰(さくらいとしあき)

1952年生まれ。東京都出身。歴史家、エッセイスト。1975年、國學院大學文学部史学科卒業。広告会社でコピーライターとして雑誌、新聞、CM等の広告制作に長く携わり、その後フリーとして独立。不惑を間近に、英国史の勉学を深めたいという気持ちを抑えがたく、猛烈に英語の勉強を開始。家族を連れて、長州の伊藤博文や井上馨、また夏目漱石らが留学した日本の近代と所縁の深い英国ロンドン大学ユニバシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の史学科大学院中世学専攻修士課程(M.A.in Medieval Studies)に入学。1997年、同課程を修了。新著は『物語 ウェールズ抗戦史 ケルトの民とアーサー王伝説 』(集英社新書)。他の主なる著書に『消えたイングランド王国 』『イングランド王国と闘った男―ジェラルド・オブ・ウェールズの時代 』『イングランド王国前史―アングロサクソン七王国物語 』『英語は40歳を過ぎてから―インターネット時代対応』『僕のロンドン―家族みんなで英国留学 奮闘篇』などがある。著者のプロフィール写真の撮影は、著者夫人で料理研究家の桜井昌代さん。

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