2017.12.28 |暮らし   

シニア特急~初老の歴史家、ウェールズを征く~<28>【連載 エッセイ】

 長年、イギリス史を研究してきた、歴史家でエッセイストの桜井俊彰氏は、60代半ばにして、自身にとって「行かなければいけない場所」であったウェールズへの旅に出かけます。

 桜井さんのウェールズ旅の軌跡を、歴史の解説とともに綴った、新しいカタチの「歴史エッセイ」で若いときには気づかない発見や感動を…。

 シニア世代だからこそ得られる喜びと教養を堪能してください。

 さあ、『シニア特急』の旅をご一緒しましょう!

【前回までのあらすじ】

 ウェールズの大聖堂「セント・デイヴィッズ」にゆかりの深い『ジェラルド・オブ・ウェールズ』の本を日本人向けに出版した桜井氏は、「セント・デイヴィッズ」を訪れ、その著作を寄贈することを夢見ていた。

 そして、ついに念願が叶い、ウェールズへの旅へ出発する。

 飛行機、列車、バスを乗り継ぎ、無事に目的地である大聖堂「セント・デイヴィッズ」のある街、セント・デイヴィッズに到着した。

 宿はB&Bの「Ty Helyg(ティー・へリグ)」。早速、訪れた大聖堂は土地の谷底にそびえ建っていた。神聖なる聖堂の中へ入り、ついにジェラルド・オブ・ウェールズの石棺に出合う!また、思いがけず、テューダー朝の始祖である国王ヘンリー7世の父、エドモンド・テューダーの石棺にも巡り合う。

 ジェラルドについて記した自著を大聖堂「セント・デイヴィッズ」へ献上したいという思いを果たし、翌朝、再び「セント・デイヴィッズ」を訪れた際、教会の幹部聖職者である参事司祭に出会い、前日渡した著書のお礼を言われるのだった。そして、バスを乗り継ぎ、次の目的地、ペンブロークに到着した。

 予約していた宿「Old Kings Arms Hotel」は、まるで絵本に出てくるような外観。荷をほどき、早速、ペンブローク城に向かう。円形の城壁を右回りで進むことに決め、バービカンタワー(Barbican Tower)から大塔、そして「ヘンリー7世の塔」に。城内巡りを堪能した後、濠の外からペンブローク城を再び見学、その姿を写真に収め宿に戻り、夕食をとるためにホテル内のレストランの席についたところ、日本の俳優、笹野高史似のホテル支配人から、彼の友人が書いた日本海軍についてのレポート内容について、質問を受けたのだった。

城壁のユニオンジャックとウェールズ国旗

「ペンブローク城」壁のユニオンジャックとウェールズ国旗

 * * *

(2017/4/11 ペンブローク)

VIII アドミラル・トーゴーと戦艦「ヘイエイ」(2)

●「戦艦ヘイエイ」って何だ?

「このレポートによれば、トーゴーは英国の軍艦の製造機密、とくに推進機関の軍事機密を探りに来たのです。ペンブロークは英国海軍軍艦の製造拠点ですから」

 落ち着いた口調で、ササノさんは手に持ったレポートを示しながら私に語っている。

 おおっ、出た!東郷平八郎軍事スパイ説か。すごい話だな。

 これはササノさん、友達のためにも私から確認をとりたいだろう。ただ、残念ながら私が知る限り、日本ではこういう説はない。しかし、と考える。英国から見たらこうなるかもしれないな、と。

 東郷平八郎が英国留学したのは、日本海軍が創設されて間もない明治4年からだ。当然そのころの日本に、列強に伍するような軍艦を造ることができる技術も設備も人材も揃っているはずはない。

 第一、ずっと後の明治38年の日本海海戦のときの旗艦「三笠」も、英国のヴィッカース社に発注した英国製の戦艦である。だからよくよく考えればあの頃の、国の将来を担ったエリート士官たちが留学先で軍事機密や技術を盗むスパイの役目を仰せつかっていたとしても、それは可能性の問題としてあっても不思議ではない。

 ふむ。東郷さんが英国から持ち帰ろうとしたのは、ビーフシチューの作り方だけではなくて、軍艦の作り方もそうだったのかな。結局ビーフシチューは、帰りの軍艦の中で料理長命じて作らせたところ、肉ジャガになったという話だけれど。

 私が、「日本には今のところ、東郷平八郎軍事スパイ説はないよ」ときっぱり返すと、ササノさん、素直にそうですかと頷き、今度はこんなことを言ってきた。

「『ヘイエイ』という戦艦をご存じですか。ヨカスカで造られた日本海軍の軍艦です」

 ヨカスカは横須賀のことだろうなとはわかる。あそこでは昔から軍艦を造っている。でも「ヘイエイ」なんていう軍艦は聞いたこともないぞ。第一、とても変な名だ。で、そう伝えると、

「このレポートには『ヘイエイ』とあります。ご存じありませんか。『ヘイエイ』は、実はイギリスで造られたある軍艦の推進機関の技術を盗んでヨカスカで建造されたのです」

 おっと、これはただならぬ話である。「ヘイエイ」とかいう、へんちくりんな名の日本の軍艦が、イギリスから盗んだ技術でヨカスカ、改め横須賀で造られたというのである。

 実にでたらめくさい。ま、とにかく「ヘイエイ」がどういう軍艦か、わからなくては始まらない。こんな艦名、絶対に日本のものじゃない。

●戦艦「金剛」の姉妹艦

 私は、とにかくそのレポートを見せてもらうことにした。もちろん英語で書かれているものだから、当該箇所を見つけるのにそれなりに時間がかかる。

 えーっと、ここだ、何々?―― Heiei, a sister ship of the battle ship Kongo――戦艦金剛の姉妹艦ヘイエイ――

 あっ、なんだ、比叡じゃないか。戦艦「比叡」。

 即、「『ヘイエイ』は『ヒエイ』と読む、スペルをHieiと訂正すべきである」とササノさんに伝える。

 ただ、「ヘイエイ」が「比叡」という実在した日本海軍の戦艦だとわかったことで、そのレポートの説もあながちでたらめでもないような気がしてきた。

 少し考える。「比叡」が「金剛」の姉妹艦(同型艦)だったのは事実である。そしてさきほどササノさんは、「『ヘイエイ』はイギリスで造られたある軍艦の推進技術を盗んでヨカスカで建造された」といった。もしかしたら……

「その、イギリスで造られた軍艦というのはここに書いてある『Kongo』ですか?」

「そうです。『Kongo』です」

 うーむ。そうすると、ササノさんの友人の説が正しいと仮定すると、日本海軍は最新の推進機関の技術を盗むためにわざわざイギリスに日本の軍艦「金剛」を発注し、完成した艦を日本に持ってきてその技術をつぶさに調べて、横須賀で「金剛」と同じ推進機関を持つ同型艦「比叡」を作ったことになる。なんか、とても変な話だ。

 そもそも英国が、盗まれるかもしれない最新技術満載の軍艦を、日本の発注で造って売るということが、今の感覚ではとても理解できない。

 欧米人にありがちな優位思想で、どうせ日本人には真似できやしないと、ビジネスと割り切って造って売ったのだろうか。

 ともかく、私にはこの場で即答できるこれ以上の知識はなく、またササノさんも「ヘイエイ」が「比叡」であること、ヨカスカが横須賀であることに満足し、加えて私がその場で自分のスマホで調べてディスプレイに出した戦艦「比叡」の写真を見たことがとても嬉しかったようで、お時間をとらせて申し訳なかったと、彼は丁寧にあいさつをし、この件は終わったのだった。

●英国の技術を盗んだのではない

 ただ私は気になって、これも後で調べたことだが、1906年に進水した英国海軍の戦艦「ドレッドノート」は、これまでの軍艦史を覆す画期的な蒸気タービンという高速推進機関を備えており、この高速「ドレッドノート」の登場で、従来の世界の軍艦は一気に旧式化したそうである。

 よく「弩(ど)級戦艦」、あるいは「超弩級戦艦」という言葉を耳にするが、この弩はドレッドノートの頭文字「ド」からきている。

 当時日本にはもちろん「ドレッドノート」のような軍艦を造る技術はなく、そのため英国に発注したのが「金剛」だった。そしてその技術に倣って横須賀で建造されたのが「金剛」の二番艦「比叡」だった。

 もっとも「比叡」が横須賀で起工されたのは、「金剛」の起工から遅れること10か月程度の1911年11月で、ゆえに「金剛」が完成して日本に持ってきてからつぶさに調べ、そののち「比叡」を造ったのではないことは明らかだ。

「金剛」の建造を請け負ったのは、「三笠」を造ったヴィッカース社であり、その設計図は日本国内の他の軍艦にも使用できるとの契約だったという。

 また「金剛」を造ったヴィッカース社のバロー=イン=ファーネス造船所には多くの日本人技術者、作業員も派遣されていたらしい。こういう経緯から、比叡が金剛の技術を基にしたのは確かだが、技術を「盗んで」建造されたのではないことがわかる。あくまでも契約で合意したことだから、合法的なのであって、盗用ではない。

 ササノさんの友人の説は、東郷平八郎軍事スパイ説を含め、やっぱり半分以上でたらめ、あるいは盗まれたという「誇張表現」なのである。

 だいたい、英国のドックで造られたとはいえ、金剛はイギリス海軍の軍艦ではない。だからその技術を盗んだというのもおかしな話なのだ。

●盗用説の背景

 しかし、なぜこんな盗用説が出てきたのかという背景は、私には何となくわかる。

 イギリス人には、「我々は日本軍の被害者だ」という意識が年配の人を中心にまだ根強く残っている。

 あの第2次世界大戦で、日本は米英軍に負けた。しかし、実際に日本をぐうの音も出ないほど叩いて叩いて完敗させたのはアメリカであって、イギリスは結果的に勝った側にいはいたが、日本にはろくな目にあわされなかったという被害者意識のほうがはるかに強い。

 戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」、重巡洋艦「レパルス」を始めとする英国東洋艦隊のめぼしい艦を日本軍航空隊に撃沈され、泰緬鉄道(たいめんてつどう)の敷設(ふせつ)で多くの英国人捕虜が犠牲となった。

 おまけに戦後はインドやパキスタンの独立など、大戦終了後に沸き起こった民族自決の影響をまともに受けて、信じられないほど多くの海外領土=植民地を失うなど、少なくともイギリスに関する限りは、勝ったとはいえ失ったものはとてつもなく大きい。

 だから、我々日本人はときたまイギリス人のとんでもない怒りに面食らうのである。

 そこには、「日本には昔から散々便宜を図ってやったのに、なんだ」という恨みも加わっている。開国以来、たくさんの海軍士官を受け入れて、ビジネスとはいえ最新の軍艦を優先的に日本のために建造し、気風までも含め日本海軍を育て、挙句は栄光ある孤立を捨て日英同盟(Anglo-Japanese Alliance)まで結んで、日本のロシアに対する勝利の陰の立役者になったのはどこの国だ、と言いたいのである。
 
 まあ、日英同盟については、イギリスも同じような、いやそれ以上のメリットを受けたと私は思っている。2回にわたる大全面戦争である南アフリカ戦争(ボーア戦争)による国力の疲弊、さらには第2次南アフリカ戦争前後からのヨーロッパにおけるライバル、ドイツの台頭。そんな中で、あのロシア帝国の南下から極東に持つイギリス権益を守るために軍隊など到底派遣できる余力はない。

 苦悩する状況の中、英国海軍の規律と武の伝統を受け継ぎ、かつ近代的艦艇を多く有する練度の高い日本海軍の存在は英国の帝国維持のための救いだったのだ。少なくとも、日英同盟は完全に利害が一致した、英国にとっても結びたくて仕方がなかった条約だったのである。

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桜井俊彰

桜井俊彰(さくらいとしあき)

1952年生まれ。東京都出身。歴史家、エッセイスト。1975年、國學院大學文学部史学科卒業。広告会社でコピーライターとして雑誌、新聞、CM等の広告制作に長く携わり、その後フリーとして独立。不惑を間近に、英国史の勉学を深めたいという気持ちを抑えがたく、猛烈に英語の勉強を開始。家族を連れて、長州の伊藤博文や井上馨、また夏目漱石らが留学した日本の近代と所縁の深い英国ロンドン大学ユニバシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の史学科大学院中世学専攻修士課程(M.A.in Medieval Studies)に入学。1997年、同課程を修了。新著は『物語 ウェールズ抗戦史 ケルトの民とアーサー王伝説 』(集英社新書)。他の主なる著書に『消えたイングランド王国 』『イングランド王国と闘った男―ジェラルド・オブ・ウェールズの時代 』『イングランド王国前史―アングロサクソン七王国物語 』『英語は40歳を過ぎてから―インターネット時代対応』『僕のロンドン―家族みんなで英国留学 奮闘篇』などがある。著者のプロフィール写真の撮影は、著者夫人で料理研究家の桜井昌代さん。

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